哀しみの樹の香りは 変容に優しく寄り添う ―サイプレス―
Vincent van Gogh
【糸杉】 1889年6月
キャンバスに油彩 93.4×74cm
メトロポリタン美術館蔵
晩秋の香りといえばサイプレス。
私はこの香りに、どうしてもゴッホを重ねてしまいます。
37歳で生涯を終えた彼が、晩年にモチーフに選んだサイプレス(糸杉)。
人間との関わりは古く、古代エジプト時代には「棺に入れられていた」と記録されています。
古代ギリシャ人は、サイプレスを死と永遠の両方を支配する冥界の神ハーデスに献上していたといわれ、悲しみの象徴として、地中海沿岸一帯の墓地にはサイプレスが植樹されています。
イエス・キリストが磔にされた十字架も、このサイプレスで作られたという説が。
花言葉は「死・哀悼・絶望」。
それを象徴するギリシャ神話があります。
太陽神アポロンに愛されていた美少年のキュパリッソス。ケオス島に金色の美しい大鹿がいて、人々に大切にされていましたが、なかでもキュパリッソスはこの大鹿を兄弟のようにかわいがっていました。
ところがある日、キュパリッソスが槍投げをしていると、投げた槍が大鹿に命中し死んでしまいます。
キュパリッソスは嘆き哀しみ、自分の死を願いました。アポロンのどんな慰めの言葉にも耳を貸そうとはしません。やがて哀しみ続けたキュパリッソスの血は枯れて、髪は逆立ち、身体は緑色になってしまいます。そんな変わり果てた姿を哀れに思ったアポロンは、「これからは死者を見守る力のあるものとなるように」と、うなだれるキュパリッソスを涙を滴らせる姿の樹(サイプレス)に変えてあげました。※サイプレスの樹液は樹皮の上で涙のように水玉になります。
そしてサイプレスは、哀しみの樹と呼ばれるようになり、墓地に植えられ、死者を追悼する樹となったのです。
死と結びつくサイプレス。
そう言うとなんだか重苦しいかもしれませんが、私がサイプレスの香りから感じるのは「死は生の終わり」ではなく、「死は生の中にある」という感覚。
昨年フランスを訪れたときに街の至るところで見かけたサイプレスの木々。深い緑色の葉が上へ上へと、天に向かって伸びる姿から感じたのは溢れる「生」そのものでした。
人生の終わりは、次の新たなドラマの始まりであり、永遠に続く魂の壮大なストーリーの一コマにすぎない。
ゴッホは【糸杉】を描いているとき、そんなことを感じていたのかもしれません。
自分の左耳を切り落とし、サン=レミの精神療養院に入院した直後に描いた作品。死の象徴とされるこの木をモチーフに選んだのは死に取り憑かれていたからでは?という憶測もありますが、ゴッホは精神が落ち着いている時しか絵筆を握らなかったと言われています。
純粋にサイプレスの「生」のエネルギーに惹かれ、描き続けているうちに生と死の境界が無くなっていったのかもしれないと妄想してしまいますが、真実は誰にもわかりません。
サイプレスは、五行説だと「金」を代表する香り。
金は季節でいうと秋。青々として植物の呼吸器として働いていた葉が役目を終えて、枯れて落葉する様子が金の性質を表します。
枯れ葉は樹木を離れ落ちますが、それで命が終わったわけではありません。土に還り、次の生命、種子を芽吹かせるための栄養となるのです。新しい役割への「変容」が金のエネルギーといえます。
そして晩秋の落葉ってなんだか感傷的な気分にさせますが、このもの悲しい感じがまさに金性の感情です。
何かが終わるとき、別れるとき、手離すとき。やはり悲しくなるものです。
でも、それは自然な流れであって誰にも止めることはできない。
その悲しみに寄り添ってくれるのは、大切な大鹿を失ったキュパリッソスの化身、サイプレスの香り。
変容を恐れるばかりに人生の流れをとめてしまっている人がいたら、サイプレスの香りに身を委ねてみてください。流れに抗わず、魂のドラマを進める手助けをしてくれるはずです。
※現在、上野の森美術館にて『ゴッホ展』が開催されています。2020年1月13日まで。代表作の【糸杉】も展示されています。私はサイプレスの香りを纏って観に行きたいと思っています。
サイプレス/Cypress
Cupressus sempervirens
(キュパリッソス 永遠に生きる)
科名 ヒノキ科イトスギ属
常緑針葉樹
香りの抽出部位 葉 小枝 球果
2019年12月11日